バーチャルトレーダーの罪深さ

 その昔、2chの投資一般板に、常に信用全力で派手な取引を繰り返す人気のコテハンがいた。彼の書くブログはランキングでも上位で、多くの読者を惹きつけていた。

 余人には真似できないダイナミックな資産の増減。それが注目を集める要素であり、コンテンツの中心であった。

 仕手株個人投資家に人気のテーマ株など、ボラティリティの高い銘柄を主に手掛け、時には激しいドローダウンに見舞われることも幾度となくありながら、ここ一番では大ロットの底値買いを決めて奇跡のような復活劇を繰り返し、最終的にその資産額は増え続けていった。

 デイトレブームの到来で経験の浅い個人投資家が大量に生まれ、まだ情報ネットワークも未整備だった時代、彼のような草の根のカリスマに憧れるトレーダーは少なくなく、自分もしばらくはその読者の一群に加わっていた。

 ただ、ある時にふと疑問に思うことがあった。大きくやられた後の戻し方があまりにも都合が良すぎるのだ。しかも、そういう時は大抵含み損からの底値倍ナンピンによる脱出というパターンが多かった。

 値動きの激しさは、欲や恐怖を煽って人を正しい判断から遠ざける。そこにレバレッジがかかっていれば、のし掛かる精神的な負荷は加速度的に増大する。

 それなのに、彼は追い込まれるほどに集中力を増しているかに見えた。普通なら折れて投げてしまうようなところを、いつも不思議過ぎるほどの沈着さで完璧な買い増しを敢行して窮地を切り抜けていた。

 マンガやアニメのキャラクターならそれでいい。しかし生身の人間にそんな能力が備わることがあるのだろうか。しかも一度や二度ではなく、毎回そうなのだ。

 ほどなくして、資産報告スレで常勝を誇っていた緑地公園というコテハンがバーチャルであったことを告白したという話を聞いた。投資界隈におけるいわゆる"バーチャ"、すなわち嘘の報告を行って勝ちを偽装している者の存在を、自分はそこで初めて知った。

 それまで想像もしていなかったバーチャという存在。その概念が頭にインプットされた時、ごくごく自然な発想としてある考えが浮かんできた。ひょっとして、彼もバーチャなのではないか?

 それからそういう目線で見てみると、彼の報告があまりにも不自然に都合よく作られたものに見え始めた。お得意の底値買いにしても、その価格の流動性がほとんどないというポイントで見事に反転を捉えていることになっているケースが非常に多いことがわかってきた。

 こんなことは絶対にありえない。なぜなら、そんな芸当ができる投資家ならそこまで追い込まれる前に、もっと楽に勝っているはずだからだ。彼は話を盛り上げるために取引をでっち上げている。様々な状況証拠から、自分はそのように断定した。

 その後、彼が借金の申込みを方々でしているという噂が流れたこともあり、いつの間にか世論も自分と同じような見方をするようになり、いつしか彼はネットから姿を消した。今から15年も前の話である。

 マーケティング、虚栄心、承認欲求、あるいは単なるイタズラ。SNSがあらゆる人に行き渡った現在、世の中には様々な動機によって、より巧妙にウソをついて自身の影響力を高めようとする人々で溢れかえっている。

 私はネット上に流布されるウソが、人が考えているよりも遥かに社会にとって有害だと思っているため、この風潮には強い嫌悪感を覚えている。

 先程の例を取ってみれば、彼は本来なら成功し得ない無茶なトレードをバーチャとして繰り返し、あたかもそこに道があるように見せかけることで、腕さえあればあんな取引ができるはずなのだと多くの者を錯覚させてしまった。

 本当は誰にも渡ることのできない吊橋があって、その向こう側で偽りの勝者が宝物を手に囁く。さあ渡ってごらん、君に勇気と実力があるなら、きっとこの橋を渡りきれるはずだ、と。本人にはそんな意図はなかったかもしれないが、私には彼のしたことがそれほど残忍な行為に思えたのだ。

 人の意識は生まれた時は空っぽで、人生の中で色々な体験をすることでその輪郭が形作られていく。火を扱う時には注意するべきだとか、雨の日には少し慎重に歩いた方がいいとか言うことは生まれながらに知っていたわけではなく、体験を通して必要だから学んでいくのである。

 緑地公園という人の話を聞くまで、自分はバーチャという存在を知らなかった。ジェイコム事件が起きた後で初めて、株に誤発注という可能性があることを認識した。そして、そこでBNF氏が大儲けをした、その結果、資産額が3桁億円にも登るらしいということを知って、本気で投資家としてやっていきたいと考えた。あの一件がなければ、株にそれほどのポテンシャルがあると知らないまま別の人生を送っていたかもしれない。

 ある出来事が人の意識を作り変え、それが人生そのものに影響を与えるようなこともあるのだ。

 これはポジティブな影響の例だが、逆も当然ある。知らぬが仏という言葉もあるように、何かに対して過剰に恐怖や不安を植え付けられた結果、しなくてもいい悩みや心配をし、不要な備えをしてしまうこともあるだろう。その原因が事実に基づかないものだとすれば、そこに意識を持っていかれることに意味はなく、単に生きづらくなってしまっただけに過ぎない。

 耳目を集めるために少々"盛る"行為は、SNSでは必須のスキルとなっていると考える人もいるかもしれない。だが私には、今のSNSを中心としたインターネットが小さな虚飾に対して強いインセンティブを与えすぎているように思える。

 個々人が自らの目的を果たすために小さな虚飾を重ねた結果、人々の意識をありもしない幻想が支配し、それが多くの人の行動という現実に作用することがあるのだとしたら、これほど恐ろしいことはない。

 そしてもし、ウソを付くことが人に生来備わった行動原理で、SNSがそれを増幅させている"だけ"なのだとしたら、それこそ救いがたい悪夢だ。

 銀河英雄伝説の中で、ヤン・ウェンリーはこう言った。

「人類が火を発見してから100万年も経つのに、未だに火事はなくならない。近代民主主義が成立してからまだ2000年足らずだ。結論を出すには早すぎると思うな」

 例えどれほどの時間が必要だとしても、これが人とSNSの持つ致命的な欠陥ではなく、正しい扱い方を学ぶことで修正可能な課題であることを願うばかりだ。